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徳恩寺について

徳恩寺について

徳恩寺は仁和寺の僧・尋清を開祖とし、九百年以上この地で同創建の隣社「春日神社」と共に歴史を重ねてきた寺です。
山門としては珍しい長屋門を配しており、創建当初は坊守が在住していたと伝えられています。
地元の方や檀家の皆様はもちろん、霊場の巡礼者の方々にもご参詣いただいております。

概要

名称 高野山真言宗 德恩寺
山号院号 日野山真如院
所在地 神奈川県横浜市港南区日野中央2-10-14
連絡先 TEL:045-842-1823
FAX:045-844-3318
宗派 高野山真言宗
札所 東国八十八カ所霊場 第六十九番
金澤霊場 第二十四番
本尊 延命地蔵菩薩像
寺宝 『五大尊軸』
五大尊を描いた紙幅。長さ一メートル・幅四十二センチの極彩色。中央に釈迦如来、左右に地蔵菩薩と薬師如来、下部に虚空蔵と観音の二菩薩。この紙幅は、昔、春日明神の本地であって、北条時政公所寄四ツ巴鎮守春日大明神御本地云々と墨書してあり、天保七年(1836年)八月に德恩寺法印・勧善が修覆し奉るとある。

『阿弥陀如来木像』
『聖観世音木像』
『弁財天木像』
『半鐘』
彫刻 本堂の内外に付随する数々の彫り物は、一人の仏師が寺に泊まり込み、七年かかって完成させたとされている。


徳恩寺の歴史

1099年
(康和元年)
九月、京都の御室・仁和寺の僧侶、尋清僧都が延命地蔵菩薩の尊像を背負って、この地に来たところ、霊感を得て、ここに寺と宮を建立。
このことを伝え聞いた、村人が、尊像の礼拝に訪れて非常な賑わいを呈した。
武蔵の大守藤原成実も、尋清僧都に厚く帰依していたので、自分が守神としている紫冠帯剣の神像を、僧都に与えた。また春日山の中腹に祠を建立させ、その紫冠帯剣の神像と延命地蔵菩薩を奉祀し、穂井の神社と称して祭祀し、尋清僧都を別当とした。
即ち、これが現在の春日神社の前身である。
尋清僧都は、穂井の神社の傍らにあった、霊井錫杖水のかたわらに、堂宇を建立して、この堂に、釈迦・文珠・薬師・地蔵・観音の五霊像を安置し、「真如坊」と称した。
これが、当寺の起源である。
この五霊像は、太守藤原成実卿が、諸寺より懇請したもので、この五仏像のうち、地蔵菩薩は、常陸の国の大丞、平の国香が護持した、行基菩薩の作と伝えられ、霊験無双といわれる。現在の徳恩寺の本尊である。
平の国香は、桓武平氏、高望王の長子で、平の将門の伯父にあたり、将門は国香の子・貞盛に滅ぼされている。貞盛は平の清盛の祖先にあたる。
尋清僧都は、更に正覚坊・萬蔵坊・光明坊・安養坊・観音坊・正福坊の六僧房を建て、ますます仏法の興隆に励んだ。
1104年
(長治元年)
堀川左大臣源俊房から「德恩寺」の扁額(へんがく)を寄与され、これを寺号とした。
1105年
(長治二年)
尋清僧都が仁和寺に帰還するため、雅宝律師が第二世となった。
雅宝律師は枝院二十四ヶ寺を開いて、末流とし、法流の隆盛に励んだ。
1150年
(久安六年)
火災の厄をうけ、その後、百数十年、無住が続いた。
1307年
(徳治二年)
藤原忠吉の命により修飾を加え、もとの姿へと復興した。
1308年
(徳治三年)
醍醐寺隆勝僧正に請いて第四世とした。
1333年
(正慶二年)
新田義貞の鎌倉攻めの余波を受けて、惟康(これやす)親王以来、三代将軍の寄進状、什宝を焼失。
1351年
(観応二年)
第五世高尊僧都が幕府に復興を要請したため、将軍尊氏は細川氏に命じて春日社および当寺を再興した。
1403年
(応永十年)
第六世祐円律師が、管領上杉氏の助力を得て、興隆を遂げ、赤松祐辨(ゆうべん)が護持していた、大聖歓喜天像を堂中に安置した。
1453年
(享徳二年)
本地堂を再建し、1519年(永正十六)、1530年(享禄三年)、1547年(天文一六年)、1564年(永禄七年)等、数回の修造を加えたが、その後 幾星霜を経て、再び社殿寺堂ともに大破におよんだので、1577年(天正五年)、第九世法印長恵/長慧の代に、代官大蔵近吉が、主命をもって修造を加えた。
1592年
(文禄元年)
4月28日、雷火のため社殿並びに当寺とも焼失、再び尊氏以来の文書等を失うこととなった。
1593年
(文禄二年)
第十世秀壽上人の代に、小堂を建立。
1594年
(文禄三年)
再び雷火によって、春日神社の社殿と共に当寺の堂宇も全焼。
1604年
(慶長十三年)
第十一世秀洪法印の代、社殿並びに当寺を再建。
1616年(元和二年年)、1626年(寛永三年)、1655年(明暦元年)等、社殿共に修復。
1660年
(万治三年)
5月29日、仁和寺惣法務宮から日野山真如院の号を賜り、宝暦年中(1751年〜1763年)、客殿再建。
1860年
(安政三年)
長屋門改築に着手(4年後・安政7年12月に完成)
1868年
(明治元年)
明治維新の際、神仏分離により、春日神社の別当職を退く。
1874年
(明治七年)
1608年(慶長十三年)以来、宝生寺末に隸していたが、1874年(明治七年)、増徳院の末派に転属。
1909年
(明治四十二年)
明治以降、四度の改築を経て、1909年の本堂改築を最後に現在に至る。
1923年
(大正十二年)
高野山金剛峯寺の直末となった。
1961年
(昭和三十六年)
茅葺きの屋根を瓦葺きの屋根に葺きかえる。
1990年
(平成二年)
客殿を改築。
1995年
(平成七年)
真如殿を新築。
2011年
(平成二十三年)
庫裡を改築。
現在 開祖尋清僧都以来、今に至るまで法統(仏法の伝統。また仏法の系統)二十九世。